2016年6月8日、おかげさまで村式は10周年を迎えることができました。
これまで村式に関わってくださり、応援してくださった皆様、本当にありがとうございます。
起業した当初はまさか10年も続くとは想像もしていませんでした。
10年続けようとも思っておらず、日々ドラマチックな今の連続で、気付けば10年というのが正直なところです。

仕事でたくさん失敗もしましたが、主に日本国内におけるお客様のEC事業支援では事業的にもいい成果を出すことができました。それはキレイ事ではなく、いつもお客様やパートナーと魂を込めて仕事に向き合ったからであり、そこだけは一つも恥じることはなく、社員はみんな一所懸命にやってきた。それは本当に誇らしく思います。

まだまだやれていないことも多く10年もやってこんなものかという思いもありますが、せっかくの10年という節目。 かなり内輪ネタ満載になってしまうと思いますが、普段あまり書かない、10年やってきたうえでの「失敗談」や「10年やってみて分かったこと」などを思いつくままに書いてみようと思います!

創業メンバーがいきなり会社に来なくなった話

2006年6月、僕と中川の2人で意気揚々と創業したはいいものの数ヶ月もの間全く仕事がなく、資本金を食い潰す日々。さすがにこれはヤバい!と危機感が募ってきた頃、共同創業者の中川が突然会社に来なくなりました。当時は9時出社のはずが、お昼になっても来ない。何かあったのかと思い電話をしたら、散歩をしていたと言われました。当時の僕と中川はそこそこ仲がいいものの、お互い踏み込みすぎないような微妙な距離を保っている関係だったこともあり、「連絡がついてよかったよ!」という感じで一件落着。

しかしその翌日も中川は会社に来ません。
電話をしたら例によってまた散歩。この日はさすがにおいおいと思ったのですが、そもそも社長で営業役の自分が仕事を取ってこれず天才エンジニアの中川の力を発揮する場面を作れないのが悪いのだし、何より起業しようぜと中川を誘って大日本印刷を退職までさせた手前の責任を痛感しつつ、自分を発奮させました。
中川も「悪い。今から行くわ」という感じで一件落着。

翌日も中川は出社してきません。
まさかと思い電話をすると「おおー、今は川のほとりを歩いているよ」、と。
なにが川のほとりだとさすがに腹が立ち「こんなピンチの時に毎日毎日散歩ばっかりして。お前は何をやっとんだ!」と初めて中川と大げんかをしました。
大の大人が散歩をするんじゃないよ!とか、散歩が大事なんだとかいう口論。
その後お互い本音で意見を言い合い、なんとか散歩はやめることという約束を取り付けました。
その後仕事を依頼して頂けるようになってから中川の散歩の日々は終わりを迎えました。
仕事が多すぎることに文句ばかり言っていた前職から一転、仕事があるということは本当にありがたいことだと痛感しました。そしてこの時から中川と僕の本音の付き合いが始まったと言えます。

経営理念に縛られすぎて倒産しかかったこと

2007年、社員全員合宿で作った経営理念(当時)が「日本のよさをサービスに込め世の中をもっとおもしろくする」。
経営理念というのは素晴らしい。
魂のこもった真の経営理念があるとき、人も会社も事業も存分に力が漲るからです。
村式もこの理念のおかげでやることがフォーカスされ、短歌SNSの「うたのわ」や伝説の売上ゼロプロジェクト「侘びログイン」などが誕生しました。
しかし、揃いも揃ってくそ真面目なメンバーしか集まっていない当時の村式。気づいたら理念に囚われ、社内は「日本のよさとはなんぞや?」という雰囲気一色に。

大手メーカーのキャンペーンサイト作成などの引き合いが来るも「果たしてこのキャンペーン、これは日本のよさに繋がるのか?」「理念に添わないことをやるべきではない!」などとまさしく経営理念の呪縛にハマり、正論のオンパレード。当然のことながら業績も低迷。状況は日々エスカレートし、来る日も来る日も日本のよさについて調べたり、社員全員で眉間にしわを寄せ日本のよさについて語り合っているという似非日本評論家のような生産性ゼロ会社になり、気付けば会社の雰囲気も最悪に。

業績も雰囲気もあまりに悪くなったこともあり、「それで、そもそも何で自分たちは会社をはじめたんだっけ?」という問いに原点回帰。そして「そうだ、俺たちは楽しい会社を作りたかったんだ!」と気付き、経営理念を「すごい楽しい会社をつくる!」に変えたのでした(当時)。
その後業績も社内の雰囲気も回復し、一件落着。
しかしほんと当時はこんなことをよく真面目にやってたなぁと。。

賞与を払うことが出来ず、みんなで泣いたこと

村式はなんだかんだありつつもずっと黒字経営を続けてきたこともあり、給与賞与は遅延、減額なく支払ってきました。それが経営者としての最低限の役割だと頑張ってきたのですが、創業5年目の頃、すぐにお金にならないがどうしてもやらねばならない仕事の量が相当多く、どうにも経営が厳しくなってしまい、冬の賞与を払えない状況になってしまいました。この状態は数ヶ月くらいから見えていたので、役員報酬をカットしたり、営業を普段全くやらない社員たちにも利益率の高い仕事をとってこよう!と号令をかけ、文字通り全員野球で必死で頑張ったのです。しかし営業未経験の人が付け焼き刃で都合のいい仕事を取ってこれるほど世の中甘くない。

そしてボーナス支給日当日。当時の僕は、社員に金が払えないなんて申し訳ないし恥ずかしくて死んでも言えない感じだったのですが、ないものはない。意を決して社員に集まってもらい、「みんな本当に頑張ってくれているのに申し訳ないのだけど、今回の賞与を払うことができないんだ。これは全部僕の責任です。本当に申し訳ない。」と謝りました。悔しくて申し訳なくて自然と涙が出てきました。
怒号が飛び交い、自分の無能さを責められると思っていたのですが、ふと顔を上げ社員を見渡すと、イカちゃんは、まるで住吉さんのせいじゃないと言わんばかりに首を横に振っていました。沈黙のなか、「皆で頑張りましょうよ、いけますよ!みんなで頑張って夏のボーナスは倍にしましょうよ!」と重松(現PincoiJapan)が言ってくれました。 これは反省すべき出来事でしたが、この時は本当に社内が一致団結しました。 そして翌月から信じられないほど業績があがり、結果的に夏のボーナスは倍近く出すことができました。この時は、時には弱さをさらけ出し共有することの大切さ、そしてみんなで一致団結したときのパワーを身を持って知ることができました。



ちなみにこの話にはしょーもない後日談があります。
数年後、たいしたこともしていないのに天狗になっていた僕は、人の話に意志なく乗っかり、全く無計画の勢いだけの投資をしすぎてしまい、結果的に村式は再び経営難に陥ります。そして再び賞与が出せないという状況が来てしまいました。
そこで僕は、社員に話があると集まってもらい、例によって頭を下げ涙ながらに申し訳ない、自分の責任だと言ったところ、前回と明らかに雰囲気が違います。もの凄く重く、不穏な雰囲気なのです。
そしてその後、いつも優しい古株のイカちゃんに呼びだされ、「住吉さん、前回と今回は全く違います。2度目はありませんし、経営者としてありえませんから。」と、こっぴどく叱られました。
今思い出せば本当に恥ずかしいのですが、二匹目のドジョウを狙うかのごとく、頭を下げて泣けば許してもらえるものと僅かながらに期待しているしょーもない自分の存在に気づき、猛反省しました。次はないぞと気を引き締め、なんとか今に至っています。 あー、この件は本当に反省。。

他にも、
過去最大にどん底の時期、いつもポジティブな助言をくれる小泉さん(村式の顧問税理士)に相談し、癒やし励ましてくれるだろうことを期待していたところ、机をもの凄い勢いでドン!!と叩かれ「お前が社長だろうが!お前が決めるんだよ!」と本気で喝を入れられたこと。

僕と社員の関係がぐちゃぐちゃになったことがあり、そんな時に西田先輩(新村式取締役)が深夜2時に東京からいざ鎌倉し、僕以外の創業メンバーとともに村式と住吉をどうするかと朝まで緊急会議をひらいてくれていたこと。

などなど、色々なことが有りましたが、今振り返ると、村式を愛してくれている人たちからの、本音本気の言葉を頂き、それによって気づきを得、一歩一歩進んできた10年だったと思います。

10年経った最近の村式の話

10年経った村式は、気付けば周りは僕より優秀な人達ばかりになりました。
頭の回転がすこぶる早かったり、とんでもない経験を積んでいたり、博識だったり、根性があったり、マネージメント力に長けていたり、ぶっ飛んだことをやる度胸があったり、どんなことも受け入れる人格があったり、クリエイティブセンス、戦略性、突き抜けた明るさやユーモア、アイデア、実行力、語学力・・・ 社内だけでなく、社外のパートナーにもたくさん恵まれ、もはや会社の垣根が存在しないのではというくらいの信頼できる社内外混在チームで仕事をすることができるようになりました。

また、肩書や過去の約束や慣習からチームを作ることをやめました。 (以前は創業メンバーだから事業リーダーだとか、役員だとか、エンジニアだから○○とか・・・仕組みや慣習に人を合わせていました) 今はそういうことには拘らず、その人の得意なこと、ときめくことをベースに組織を作るようにしました。

それから村式は変わっていきました。
例えばデザイナー入社のイカちゃんは、村式の人の真意を掴み、それを切り取るのが得意なので、広報の仕事を始めました。 管理的な仕事ではなく創ることが大得意の中川は経営陣から降り、モノづくり部門のリーダーになりました。 僕は、積み上げ式、管理的な経営の仕事を手放し、そこはビジネスの仕組み構築が得意な小池に任せました。その代わり冒険移動が大好きなので、国内外に出ていろんな人と会い、事業開拓をしています。

以前は仲間たちと内向きに肩を組んで誰が何をしているか逐一分かるような体制でしたが、今は全員が外を向き背中合わせで戦っている感覚。ようやく10年にして会社がチームとして機能しはじめたなという実感があります。 有り難いことに業績も好調です。

これからの話 〜世界と日本をつなぐ、越境EC事業〜

今村式が夢中になっているのは、越境ECの事業です。 日本のよさを以って、世界をつなぐこと。それによって世界の平和に貢献すること。 それが村式のミッションです。

次の10年。村式は日本発、アジアNo.1の越境EC事業者になることを目指します。 今、村式はインドネシア、ミャンマー、フィリピン、香港等、アジア諸国へ事業を展開しはじめ、開発中の新システムを使って、越境取引の世界に変革を起こそうと企んでいます。 違う国で違う文化をもった人たち同士の交流。取引。
そういう仕事は大変な分、刺激的で楽しく、世界が広がります。
なにより各国の中堅中小企業同士、各国同士の仕事、取引が増え、つながりが増えることは、お互いの信頼が増すこと。平和な世の中につながっていくと思うのです。

最後に

振り返ると、実に多くの人に恵まれ、楽しませてもらった10年間でした。たいして大きなこともできませんでしたが、その分目の前の出来事に向き合い続けてきた10年でもありました。社員同士よく話をし、とにかく内省をよくしていた10年だったともいえます。
これからの村式は外に出ていこうと思います。
地域の時代だからこそ僕らは日本に軸足をおきつつも、外へ飛び出す道を選びます。

10年間村式を気にかけ、支援してくださった皆様、本当にありがとうございました。
実績がゼロで誠意しかなかった村式のことをこいつらなら!と信用してくださり可能性にかけて仕事を依頼してくださったお客様、組んでくれたパートナー企業の皆様、無償の愛でいつも力になってくれた諸先輩方、安定とは対極の何の会社かよくわからない村式に入社して共に頑張ってきた社員、元社員のみんな、村式メンバーをいつも支えてくれている社員のご家族の方々、本当にありがとうございます。
そしてなによりいつも行き当たりばったりの自分を信じてくれて、疑うことなく並走してくれる創業メンバー。
本当にありがとう。皆と出会ったおかげで今の僕の人生があり、今の村式があります。

皆様のおかげで村式は10年やってこれました。 皆様のもとに更なる最高の幸せが訪れますように。

10年間、本当にありがとうございました! 11年目からの村式も、どうぞよろしくお願いいたします!!





村式株式会社 代表取締役 住吉優